新年の寄席でよくかかる演目のひとつが、縁起の良いタイトルを持つ落語「御慶」です。
町内で評判のうっかり者・八五郎が、思いがけず富くじで大当たり。そこから始まる大騒動を、軽やかなテンポとおめでたい雰囲気で描く一席です。
本記事では、落語「御慶」のあらすじはもちろん、登場人物のキャラクター、噺としての聴きどころ、バリエーションの違いなどを専門的に解説します。
初めてあらすじを知りたい方から、上級の落語ファンまで、読みやすく整理して紹介しますので、ぜひ最後までお付き合いください。
目次
落語 御慶 あらすじの全体像と作品の位置づけ
「御慶」は、上方発祥とされる富くじ落語の一つで、江戸落語にも移植されている新年向けの演目です。
タイトルの「御慶」とは、年始の祝意・賀詞を意味し、その名の通り、舞台は正月の江戸の町。貧乏長屋に住むが陽気な男・八五郎が、富くじにまつわる騒動に巻き込まれていきます。
いわゆる人情噺ではなく、滑稽噺・世話噺の一種で、明るくにぎやかな会話と、勘違いの連鎖が笑いを生み出すのが特徴です。
年初の寄席や新春落語会でかかることが多く、近年はテレビや配信などでも取り上げられる機会が増えたため、演題だけ知っているという方も少なくありません。ここでは、そんな「御慶」の全体像を整理していきます。
同じく富くじを扱った「富久」「宿屋の富」「宿屋仇」などと比べると、「御慶」は物語のスケールよりも、正月風情と町人の会話の可笑しさに比重を置いた構成になっています。
長さも中くらいの一席として演じられることが多く、落語会の中盤を彩る、華やかな演目として重宝されています。
また、演者によっては小咄のようなテンポ感で軽く演じる場合もあれば、人物描写を厚くしてゆったり聴かせる場合もあり、噺家の持ち味がはっきり出る演目です。
まずは、物語の流れをつかみやすいように、章立てを追いながらあらすじを見ていきましょう。
タイトル「御慶」が示す意味と新年らしさ
「御慶」とは、もともと「お慶び申し上げます」という意味の、あらたまった賀詞です。
年賀状などでも見かける語で、新年の改まった祝意を表します。この語をそのまま演題に掲げていることからも、噺全体に「年始ご挨拶」「初もうで」「富くじ」など、新年ならではの縁起物のモチーフがちりばめられています。
噺の前半では、八五郎が大家や町内の人々に新年の挨拶回りをする場面が入り、そこでのやりとりから人物関係が描き出されます。
こうした年始の風景描写が、単なる設定以上に、聴き手に季節感をまとわせる役割を果たしているのです。
また、多くの演者は、マクラの段階から現代の年末年始事情や、初詣、宝くじにまつわる小話を織り込み、そこから江戸期の富くじの話へと自然に橋渡しをしていきます。
これにより、現代の聴き手にも「昔の人も、年初に運だのみをしていたのだな」と共感しやすくなります。
タイトルの「御慶」は、単におめでたいという以上に、「年の始まりとともに、運命が転がり出す瞬間」を象徴しているといえるでしょう。
「御慶」が属するジャンルと他の富くじ噺との違い
落語の中で富くじを題材にした演目はいくつもありますが、それぞれに性格が異なります。
例えば「富久」は、売れない噺家・久蔵が主人公で、火事場のどさくさを背景に人情味を描き込み、ややしみじみとした味わいを持つ作品です。
一方「宿屋の富」は、宿屋に泊まった客たちが一枚の富札を巡って右往左往する群集喜劇で、サスペンスに近いスリルも含んでいます。
これに対して「御慶」は、よりシンプルに、八五郎と周囲の会話劇に軸足を置いた明るい滑稽噺です。
違いを整理すると、以下のようになります。
| 演目名 | 主な主人公 | 作品の色合い | 主な聴きどころ |
| 御慶 | 長屋の八五郎 | 軽快で新年らしい滑稽噺 | 会話のテンポ、正月風情 |
| 富久 | 売れない噺家・久蔵 | 人情とサゲの余韻 | 火事場の描写と心理劇 |
| 宿屋の富 | 宿屋の主人ほか群像 | サスペンス風の群集劇 | 富札争奪の駆け引き |
このように、「御慶」は富くじシリーズの中でも特に敷居が低く、初めて富くじ噺を聴く人にもすすめやすい演目として位置づけられています。
御慶のあらすじ前半:八五郎の正月と富くじの購入

あらすじの前半では、舞台となる江戸の長屋と、主人公・八五郎の人物像が、自然な会話の中から立ち上がってきます。
新年、長屋の住人たちがそれぞれに年始の挨拶を交わしながらも、懐具合は相変わらず苦しい。そんな中でも、八五郎はいつもの調子で、明るく冗談を飛ばしながら大家のところへ顔を出します。
このパートで重要なのは、八五郎の「のんきさ」と「運のなさ」が描かれることです。
年末、彼は富くじを買いそこねたか、買ったものの番号をうろ覚えにしている、という設定が用いられることが多く、この伏線が後半のドタバタにつながっていきます。
富くじそのものの仕組みも、会話の流れの中でさらりと説明されます。
江戸時代の富くじは、寺社の修繕費などを賄う一種の公営ギャンブルで、くじ札を買っておき、後日、堂前に掲げられた当たり番号と照らし合わせて確認するスタイルでした。
この時点では、八五郎自身も「どうせ当たりっこない」とタカをくくっていることが多く、その油断が大騒動の引き金となります。
前半は、特別大きな事件が起こるわけではありませんが、長屋の日常描写を通じて、聴き手を世界観に引き込み、後半の展開に備える構造になっています。
長屋の正月風景と八五郎のキャラクター
正月の長屋の描写は、噺家の腕の見せ所です。
門松や注連飾り、雑煮の支度、子どもたちの凧揚げや羽根つきなどの情景を、セリフの端々や地の語りで織り込みながら、「金はないが、そこそこ楽しい年始」を立ち上げていきます。
八五郎は、典型的な江戸前の長屋住まい。日頃から酒と博打が好きで、几帳面さとは無縁ですが、人の良さと憎めない明るさを持っています。
彼が大家に挨拶に行く場面では、目上を前にしてもどこか砕けすぎた物言いをし、たしなめられながらも笑いを誘うのが通例です。
この段階で、八五郎が「今年こそは運をつかみたい」と口にする演出も多く、富くじとの関連をさりげなく示します。
一方で、妻や周囲の住人は、「あんたが運をつかむくらいなら、犬が餅をつくよ」といった具合にからかい、彼のうっかり者ぶりが際立ちます。
こうした人物像の下敷きがあるからこそ、のちに富くじの大当たりが発覚した瞬間に、聴き手は驚きと同時に痛快さを感じるのです。
富くじの仕組みと江戸のギャンブル文化
作品中に出てくる富くじは、現代の宝くじの先祖にあたる存在です。
寺社の境内で一枚いくらと売られ、その収益が本堂の修理や行事に充てられました。番号が書かれた札を購入しておき、後日、当選番号が掲示されると、人々は自分の札と照らし合わせて一喜一憂しました。
「御慶」では、この仕組みをわざわざ説明するというより、登場人物たちが「今年の富はどこそこで」「札はいくつ買った」といった会話を交わすことで、自然と背景が理解できるように工夫されています。
江戸時代の町人にとって、富くじはささやかな夢でした。
大金を一気に手に入れられるかもしれない高揚感とともに、「どうせ自分には当たらない」という自虐的な諦めもあり、それが落語的な笑いにつながります。
噺家によっては、現代のジャンボ宝くじやスポーツくじの話題をマクラに振り、そこから江戸の富くじへつなぐことで、聴き手のイメージを補っています。
こうした歴史的背景を知っておくと、「御慶」の会話一つひとつに含まれるニュアンスが、より豊かに味わえるでしょう。
前半の伏線としての「買ったつもり」「番号の勘違い」
「御慶」の前半で重要なのが、八五郎の富札をめぐる曖昧さです。
演者によってディテールは異なりますが、代表的なパターンとしては次のようなものがあります。
- 八五郎は酔った勢いで富札を買ったが、どこへしまったか忘れている
- 札は覚えているが、番号をうろ覚えで、符丁だけ頼りにしている
- そもそも「買ったつもり」になっていて、実際には買えていない
このあいまいさが、後半の「当たった」「いや当たっていない」の混乱を生みます。
伏線としての機能もさることながら、この段階からすでに笑いが仕込まれているのが巧妙です。
たとえば、八五郎が「たしか七百八十二番だったかな」「いや、二百七十八だったか」などと、番号を逆さに言い間違え続けるやりとりは、後半の発覚シーンに直結します。
聴き手は「そんな覚え方では当たりようがない」と内心つっこみながらも、どこか共感を覚えてしまうものです。
この前半の曖昧さが、後の爽快なサゲへ向けて、じわじわと期待を高めていく構造になっています。
御慶のあらすじ後半:富くじ大当たりと騒動のクライマックス
物語の後半で、いよいよ富くじの当選番号が発表されます。
長屋や町内では、「何番が出た」「あそこの旦那が大当たりだ」などの噂話が飛び交い、庶民の興奮した空気が一気に高まります。
ここで、八五郎が自分の富札の番号と当選番号がどうも一致しているらしいと気づく場面が、後半最大の山場です。
しかし、前半で示されたように、彼は番号をうろ覚えにしているため、「合っているのか、違うのか」がはっきりせず、大家や友人たちを巻き込んで大騒ぎになります。
演者によっては、大家が帳面を出して検証したり、寺社に確かめに走ったり、といった描写を細かく入れて、サスペンス的な盛り上がりを演出します。
やがて、八五郎の札が本物の大当たりであることが判明すると、彼は一転して有頂天に。周囲も「これはめでたい」と祝福し、年始らしい大団円へ向かっていきます。
ただし、結末の運び方にはいくつかバリエーションがあり、どこまで金額やその後の使い道を描くかは、噺家の解釈によって異なります。
以下では、代表的な流れとクライマックスの笑いどころを見ていきます。
当選番号発表から「もしかして当たり?」まで
当選番号の発表は、しばしば噺家の語り芸が集約される場面です。
堂前で読み上げられる番号を、噺家が抑揚をつけて再現し、そのたびごとに群衆のどよめきや、ハズレをくらった人々の落胆を一人で演じ分けます。
長屋に戻ると、誰それが百両当てた、あそこの店は外れた、といった情報が錯綜し、そこへのこのこと現れた八五郎が、「ところで俺の番号は」とようやく札を取り出すのが通例です。
この時点で、聴き手はすでに「どうせ八五郎が当てるのだろう」と予感していますが、肝心の本人が半信半疑であるため、会話が二転三転していきます。
番号確認の場面では、数字の言い間違いが大きな笑いどころです。
八五郎が「七百八十二」を「七百二十八」と読み替えたり、「三」を「ミ」と聞き間違えたりすることで、一度は外れたように見せてから、「いや、よく見たら合っている」と逆転させる構図です。
この揺さぶりがあることで、実際に当たりと分かった瞬間のカタルシスが大きくなり、聴き手も一緒になって喜びを味わえます。
噺家によっては、ここで長めのタメをつくり、沈黙で緊張を高めてから一気に当選を告げる場合もあります。
大家・町内を巻き込んだ大騒動
八五郎の当選が疑いようのないものになった瞬間から、周囲の態度は一変します。
それまで小言の多かった大家が急に親身になり、「大金を持つときはこうしなさい」と説教ともアドバイスともつかない話を始めるのは、おなじみのパターンです。
また、隣人たちが「昔からお前のことはできる男だと思っていた」などと、手のひらを返したように持ち上げる描写は、現代にも通じる人間の現金さを鋭く突いています。
しかし「御慶」という演目のトーンはあくまで明るく、こうした変節ぶりも皮肉というより、笑いとして軽く扱われます。
中には、八五郎が急に羽振りを良くして、ごちそうを振る舞おうとしたり、着物を新調しに走ったりするバージョンもあります。
その際、彼の金銭感覚のなさが露呈し、大家が「まずは借金から返せ」とたしなめる展開もよく見られます。
このやりとりを通じて、「突然の幸運をどう扱うか」というテーマが、笑いを通してさりげなく提示されていると言えるでしょう。
同時に、長屋全体が一種の祝祭空間となり、「一人の当選が皆の幸福感につながる」という共同体の温度も描かれます。
サゲ(オチ)のバリエーションと余韻
「御慶」のサゲにはいくつかのバリエーションがありますが、代表的なものを挙げると次のようになります。
- 八五郎が有頂天になって「これからは俺を旦那と呼べ」と言い出し、大家に「まずは家賃を払ってからだ」とピシャリと締められる
- 当たり札をなくしそうになり、大騒ぎの末、実は大家が預かっていたことがわかり、「これで安心して正月が越せる」という一言で締める
- 金額を聞かされて腰を抜かし、「御慶どころじゃないや」と言いながらも、結局は「ありがたい御慶だ」と頭を下げる
いずれも、突然の大金に浮かれながらも、最終的には日常へ回帰していく方向性を持っています。
サゲのつけ方によって、作品の印象は微妙に変わります。
最後をきっぱりと笑いで切るか、少し含みを持たせるかは、噺家の世代や芸風にも左右されるところです。
また、正月の高座では、サゲの直後に改めて「皆様の一年も御慶に満ちたものとなりますよう」といった口上を添え、舞台と客席の新年を一緒に祝う演出も見られます。
このように、「御慶」は物語としてのオチだけでなく、高座全体を締めくくる役割をも担うことが多い演目です。
登場人物と関係性:八五郎・大家・長屋の面々
「御慶」の魅力は、プロットの面白さだけでなく、登場人物たちのキャラクターと関係性にもあります。
主役である八五郎は、落語世界ではおなじみの長屋の住人で、「出来心」「粗忽長屋」など他の演目にも登場する、典型的な江戸庶民像の一つです。
彼を取り巻く大家や長屋の面々は、それぞれに口は悪いものの、どこか温かさを持った人たちとして描かれます。
この人間関係があるからこそ、富くじの大当たりという非日常が、単なるギャンブル話を超えた、共同体の祝祭として機能するのです。
ここでは、代表的な登場人物とその性格、そして互いの関係性を整理しておきます。
あらすじを読む際にも、誰がどの立場で何を言っているのかをイメージできると、セリフの妙がぐっと伝わりやすくなります。
また、複数の噺家の高座を聴くと、同じ役でも性格付けや口調が少しずつ違うことが分かり、その差異を味わうのも楽しみの一つです。
主人公・八五郎:粗忽だが憎めない江戸っ子
八五郎は、長屋を舞台とする多くの落語に登場するキャラクター名で、やや粗野だが愛嬌のある江戸っ子というイメージが定着しています。
「御慶」でも、その線は踏襲されており、酒癖は良くないが、決して根は悪人ではなく、むしろどこか子どものような純真さを持っています。
彼の粗忽さは、富札の番号を覚え違えたり、当たりかどうかを何度も聞き返したりする場面に現れますが、そのたびごとにセリフの繰り返しやズレが笑いを生み出します。
八五郎は、富くじを「一発逆転の手段」として真剣に狙っているというより、「当たればいいな」程度の軽い気持ちで買っています。
だからこそ、本当に当たったと分かった瞬間の驚きと舞い上がりぶりが、聴き手にも素直に伝わります。
また、「どう使えばよいか分からない」「今まで貧乏しか知らない」という彼の戸惑いは、多くの庶民が共感しやすい心情でもあり、そこに作品全体の普遍性があります。
大家の役割:説教役でありつつ、長屋の父親的存在
長屋噺における大家は、単なる家賃取りではなく、時に父親、時に裁判官のような役割を担います。
「御慶」の大家も、普段は八五郎のだらしなさを叱る立場ですが、いざ富くじ騒動が起こると、当選の確認や金の管理に関して指導役を買って出ます。
その口ぶりは厳しく聞こえることもありますが、根底には「長屋の住人を守る」という意識が感じられます。
富札の番号を確認する場面では、大家が冷静に一桁ずつ照らし合わせ、「間違いない、これは大当たりだ」と太鼓判を押すのが定番です。
この宣言が、八五郎にとっても、聴き手にとっても決定的な瞬間となります。
また、当選後には、「いいかい、金ってものはな」と人生訓めいた話を始めることで、単なる騒動話に小さな教訓を添える役割も果たします。
このように、大家は笑いのつっこみ役であると同時に、物語を締めるための軸として機能しているのです。
脇役たち:長屋の住人や友人たちが生む笑い
「御慶」には、名もなき長屋の住人や、八五郎の友人たちが多数登場します。
彼らは一人ひとりに深い背景があるわけではありませんが、セリフのトーンやリアクションを変えることで、それぞれの個性が立ち上がります。
たとえば、疑り深い男、すぐに便乗して祝杯をあげたがる男、何でも計算して損得をはかる男など、性格の違いが会話に奥行きを与えます。
こうした脇役たちは、「群衆のリアクション」を代表する存在でもあります。
誰かが「当たりだ」と言えば一斉に歓声を上げ、「いや違う」となれば一気にしらける、その温度差自体が笑いになるのです。
噺家は、声の高さや間の取り方を変えて、多人数のざわめきを一人で表現します。
この群像劇的な要素こそが、「御慶」を一人芝居として豊かにしているポイントであり、音だけで聴いても情景が浮かぶ理由と言えるでしょう。
御慶をより楽しむための聴きどころと鑑賞ポイント
あらすじを把握したうえで「御慶」を聴くと、構造だけでなく細部の技に気づきやすくなります。
落語は同じ台本をなぞる芸ではなく、噺家によって言い回しや構成が微妙に異なります。
「御慶」も例外ではなく、富くじの説明をどこまで詳しくするか、長屋の正月風景をどの程度ふくらませるか、サゲをどのタイプにするかなど、多くの選択肢があります。
ここでは、初めて聴く方にも、すでに何度か聴いたことがある方にも役立つ、鑑賞のポイントを整理します。
特に、「ことばのテンポ」「間の使い方」「時代背景の取り入れ方」の三点を意識して聴くと、噺家ごとの違いがよりくっきりと見えてきます。
マクラから本編へのつなぎ方
多くの噺家は、「御慶」を演じる前に、現代の年末年始の話題をマクラとして語ります。
たとえば、宝くじ売り場の行列、初詣の混雑、福袋やセールの話など、聴き手が身近に感じるネタを入り口にすることで、客席の空気をほぐします。
そのうえで、「ところで昔の江戸にも、縁起物の富くじがございまして」といったフレーズで、本編へスムーズにつなげていきます。
このマクラからの橋渡しの巧拙は、プロの噺家ほどバリエーションに富んでいます。
時事ネタを交えて笑いを取るタイプもいれば、あえて静かに季節感を語り、本編に集中させるタイプもいます。
同じ「御慶」でも、マクラによって印象は大きく変わるため、複数の高座を聴き比べると、その差異がよく分かります。
マクラの段階で「この人はどんな八五郎像を描くのだろう」と想像してみると、楽しみが一段と増すはずです。
数字の言い間違いと「粗忽」の表現
中盤の山場となる、当選番号の確認シーンは、「粗忽」をどう表現するかがカギとなります。
八五郎が数字を読み違える場面では、単に間違えるだけでなく、同じ音でも言い方を変えたり、テンポをわざと崩したりすることで、聴き手に笑いの予感を抱かせます。
ここでの工夫として、噺家が実際に指を折って数えるジェスチャーをしながら演じる場合もあり、視覚的な要素も加わると、会場の笑いは一段と大きくなります。
また、数字にまつわる小咄を挟み込むパターンもあります。
たとえば、「西暦と元号をよく間違える」といった現代ネタを軽く触れてから、「昔から数字には弱い男がりまして」と八五郎につなげるなどです。
このように、「御慶」は伝統的なネタでありながら、数字やくじという普遍的なモチーフのおかげで、現代的なアレンジも加えやすい演目だといえます。
正月らしい言葉遣いと季節感の演出
「御慶」を聴くうえでぜひ注目したいのが、正月特有の言葉遣いです。
「おめでとうございます」「今年もひとつ御贔屓に」といった挨拶の定番だけでなく、「歳徳神」「恵方」「御屠蘇」など、今では日常会話ではあまり使われない語がさりげなく登場することがあります。
噺家はこうした言葉を、説明的になりすぎない範囲で織り込み、江戸の年始の空気を再現します。
さらに、雑煮やおせち料理の描写、門付け芸人や物売りの声なども、音で表現されます。
これらが重なることで、聴き手の頭の中には、江戸の路地や長屋の様子が自然と浮かび上がるのです。
季節感を大切にする落語ならではの楽しみ方として、「御慶」を聴く際には、こうした言葉や情景表現にも耳を澄ませてみてください。
同じあらすじでも、季節感の描き込み方次第で、作品の厚みが大きく変わることが実感できるでしょう。
御慶のバリエーションと上演事情
落語「御慶」は、基本的なストーリーラインは共通していますが、細部の展開やサゲ、富くじの扱い方は演者によって異なります。
また、上方落語と江戸落語では、言葉遣いや人物設定が少しずつ変化している場合もあります。
現在、寄席や落語会、配信などで聴くことができる「御慶」は、こうした長年の伝承と個々の工夫が折り重なった結果として存在していると言えるでしょう。
ここでは、代表的なバリエーションと、現代の上演事情について整理します。
どのパターンが「正統」かというより、どの演者が自分にとって聴きやすいか、面白いかを探す手がかりとして活用してみてください。
上方版と江戸版の違い
「御慶」は、もともと上方で生まれた富くじ噺とされ、のちに江戸に移植されました。
上方版では、舞台が大坂の町であったり、富くじの形態が若干異なったりすることがありますが、庶民が富くじ大当たりで大騒ぎするというコアの部分は共通しています。
江戸版では、長屋・大家というおなじみの枠組みに組み込まれ、主人公の名も八五郎として定着しています。
表現上の違いとしては、上方版はややテンポが早く、ギャグの密度が高いのに対し、江戸版は会話の間合いや人物描写に重きを置くことが多いと言われます。
また、方言や抑揚の違いにより、同じ展開でも笑いのニュアンスが変わるのも興味深い点です。
複数の地域のバージョンを聴き比べることで、落語が「生きた芸能」であることをより感じ取ることができるでしょう。
噺家ごとの工夫と現代的アレンジ
現代の噺家たちは、伝統的な骨格を守りつつも、自身のキャラクターや時代感覚に合わせて「御慶」をアレンジしています。
たとえば、富くじの説明の際に、現代の宝くじの売り場やネット販売の話題を軽く差し込むことで、聴き手にとっての距離を縮める工夫が見られます。
また、八五郎の妻の存在を明確に描き、夫婦喧嘩を盛り込むバージョンもあり、そこでは家庭内での金の使い道をめぐるやりとりが新たな笑いどころになります。
さらに、一部の高座では、当選金の具体的な金額を現代の価値に換算して説明するケースもあります。
「百両と言えば、今の感覚で何千万円にあたります」といった補足を入れることで、聴き手が事態の重大さをリアルに想像しやすくなります。
こうした現代的アレンジは、伝統を壊さない範囲で行われており、古典落語が現在進行形の芸能であることを示す一例だと言えるでしょう。
どこで御慶を聴けるか:寄席・落語会・音源
「御慶」は、新年向けの演目として、主に年末から年始にかけての寄席や落語会でかかることが多いです。
定席寄席では、番組表に演目が明記されないこともありますが、正月興行では縁起物として選ばれる確率が高まります。
また、各地のホール落語会や、オンライン配信の特番などでも、新春企画として取り上げられることがあります。
音源としては、CDや配信サービス、ラジオアーカイブなどで複数の噺家による「御慶」を楽しむことができます。
特に、同じ噺を異なる世代の噺家で聴き比べると、テンポや言葉遣いの変遷が見えてきて、落語史的な視点からも味わい深くなります。
初めて聴く場合は、あらすじをざっと把握したうえで、気になる噺家の名前で検索してみるとよいでしょう。
映像付きの高座では、所作や表情が加わるため、富くじの確認シーンや群衆のざわめきがより立体的に感じられます。
まとめ
落語「御慶」は、江戸の長屋を舞台に、うっかり者の八五郎が富くじの大当たりをきっかけに巻き起こす、新年らしい滑稽噺です。
前半では長屋の正月風景と八五郎の人柄が描かれ、中盤で富くじの当選番号が発表され、後半で大騒動と大団円を迎えるという、シンプルながらもよく練られた構成を持っています。
富くじというモチーフは、現代の宝くじとも通じる要素が多く、時代を超えて共感しやすいテーマとなっています。
登場人物たちの会話やリアクション、数字の言い間違いを巡るやりとりなど、細部には噺家ごとの工夫が凝縮されています。
あらすじを知ったうえで高座を聴くと、「ここをこう膨らませているのか」「このサゲの形もあるのか」と、新たな発見が次々と現れるはずです。
正月の寄席や落語会で「御慶」の番組を見つけたら、この記事で押さえたポイントを思い出しながら、ぜひ実際の高座でその空気を体験してみてください。
新しい一年の始まりにふさわしい、晴れやかな笑いと御慶の気分を味わえることでしょう。
コメント